バラの歴史
バラの歴史は古く、地球上に現れたのは5000万年以前と、高等植物としてはかなり早くから登場しました。バラと人との関係も古く、紀元前5000年頃のメソポタミア文明からだと考えられています。英雄ギルガメッシュを描いた「ギルガメッシュ叙事詩」には、「薔薇は永遠の命・・・」と記されています。
また、ギルガメッシュを誘惑する官能的な女神、おそらくイシュタルではないかといわれている女神の像がパリのルーブル美術館に所蔵されていますが、その右手には一輪の花を持ち、恭しく左手を添えています。その花はバラだといわれています。
彩色された絵画としてバラが描かれた最古のものは、紀元前1600~前1450年ごろまで栄えたミノア文明の遺跡、クレタ島のクノッソス遺跡の壁画であるといわれています。その壁画は見事なフレスコ画によって装飾され、バラは青い鳥を描いた幾つかの花々とともに描かれています。
古代ギリシャの文献にバラの名前を発見できるのは紀元前800年頃の詩人ホメロスが書いた叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」。紀元前400年ごろの歴史家・旅行家のヘロドトスの「歴史」にもダマスセナやセンチフォリアと思われるバラが登場します。
ギリシャ文明が衰退した後、紀元前334年にアレキサンダーによって史上初のコスモポリタン国家が作られ、東西文明の融合に大きな役割を果たすことになります。その結果、数々の植物とともにさまざまな品種のバラもエジプトにもたらされることになりました。
ローマ時代が形成され、紀元前48年にはクレオパトラがエジプトを統治します。
クレオパトラのバラ好きは有名な話。寝室にはひざの高さまでの花びらを敷き詰め、シーザーやアントニウスを迎えたといいます。野に咲くバラを摘んできたとは考えにくく、この頃には既にエジプト周辺ではバラの花の栽培がされていたと考えられます。
最初のローマ帝国となったアウグスチヌスの時代になると、バラは日常の生活を飾る花になっていきました。自分のバラ園を作ることが習慣となったほどでした。
ローマ帝国第五代皇帝ネロ(37~69年)のバラ狂いはとくに有名で、宮殿で繰り広げられた晩餐会の部屋をバラの花で埋め尽くすほどに飾りたて、天井からはバラの花びらをまるで土砂降りの雨のように降りかけ、銀のパイプからはバラの香りをつけた水がテーブルに降りそそいだといいます。その重みで来客が窒息したという話まであります。膨大な費用がそのために支払われたのは想像に難くないでしょう。
ネロの妃ポッパエアの葬儀にネロが使った香料は、当時ローマに香料を供給していたアラビアの年間生産量を超え、香りは4キロ四方を満たしたといいます。
古くは、原産地のひとつである小アジアで生産されたバラをヨーロッパに広めたのは十字軍でした。さまざまなバラを自国に持ち帰り、その結果、バラがヨーロッパ諸国に広がっていきました。ロサ・ダマスセナ、ロサ・ガリカ、センチフォリアなどはこの時代にヨーロッパに持ち込まれたものです。
中世に入ると、神に捧げるバラだけが教会や修道院で栽培され、キリスト教の禁欲的道徳観によって一般の人々のバラの栽培は禁止されました。キリストの血を象徴する赤いバラ、マリアの象徴である白いバラが栽培されていました。
その後、ルネッサンスによってバラは再び一般の人々の手に戻り、このころの東西の文化交流の波に乗って、世界的に広まっていきました。フィレンツェのメディチ家の庭にはバラ園が作られ、数々のバラが栽培され、それらの品種の区別がつくほどに克明に描かれているボッティチェリの「春」や「ビーナスの誕生」などは有名です。
バラの栽培が飛躍的に発展し、栽培技術の基礎が築かれたのは19世紀でした。
今日のバラの発展に大きく貢献したのはナポレオンの妃であるジョセフィーヌ。こよなくバラを愛した彼女は、世界各地にプラントハンターを派遣し、様々な植物を集めマルメゾンに庭園を造りました。バラだけでも250種類集められました。ジョゼフィーヌの援助を受けた、園芸家アンドレ・デュポンは、人工交配によりバラの新品種を作り出しました。
その後、品種改良は飛躍的に発展していきます。また、ジョゼフィーヌの大きな功績として、バラの画家ピエール・ジョセフ・ルドゥーテを育てたことを忘れてはいけません。
1867年、フランスのギョー・フィスによって、ハイブリッドティー (HT)系品種の第一号となる「ラ・フランス」が誕生することになります。現代バラの誕生です。さまざまな品種改良、研究は現在もなお衰えることなく脈々と続いています。
このように、バラは古代から人々に愛され、文化や歴史と共に進化しているのです。
「オールド・ローズ花図譜」野村和子著/小学館/2004年
「薔薇のパルファム」蓬田勝之著/(株)求龍堂/2005年